毎日、 死にたい と思っていた
もう、いつからそう思っていたのか分からない。
たぶん初めは親への殺意だったと思う。
<↑小学生の時の日記>破られたページに何を書いていたんだっけな
毎日課されるハードル。
彼らの望む“ワタシ”になれない私は、
罵倒され、叩かれ、家から放り出された。
玄関の外の暗闇は、幼い私には怖くて、怖くて。
踏み出せなかった。
背の後ろにあるドアの向こう側に戻れば、
また課題と罵倒の日々だと分かっていても、
泣いてすがるしかなかった。
そんな毎日が繰り返された。
テレビで流れる虐待児ほど酷くない。
痣ができるまで殴られるわけじゃない。
ご飯が食べられないわけじゃない。
服が着られないわけじゃない。
家もある。
両親は真面目にサラリーマンと専業主婦をしていた。
“何の罪もない”
じゃあ・・・悪いのは私か。
殺意が自分に向かった小学生のあの日から、長いこと、
「死にたい」とつぶやき続けて生きていた。
16歳で父親が死んだ。
生活が変わった。
いい方向に。
明らかに監視が緩んだ。
父親が死んでちょっと幸せになった。
その事をまた責める日々。
葬式で、あるいは身の上話の席で出る、
「可哀想ね」「大変だったでしょう」という
“優しい”言葉に何度も傷ついた。
23歳で結婚して、初めて家を出た。
同じ屋根の下にいない事が、こんなにラクになれるなんて。
親の事ばかり書いたけど、
死にたい理由なんていくらでもあった。
ある日突然始まった、いじめ。
小学生の頃から遭っていた、性犯罪。
昨日黒だと言った上司が白だと言い怒鳴られる、職場。
失恋、孤独、依存、離婚。
今でも、その事を思い出すと涙が流れる。
今でも、死にたいと思う癖はスッポリ抜けたわけじゃない。
けど、共に生きていこうと思っている。
死にたい気持ちと共に。
よく『死にたい=生きたい』だ、というけど、
私にとってはそれは違くて、
『死にたい=死にたい位ツライ』って事なんだよね。
本当にツライんだ。
他の誰にも、この苦しみは分からなくても。
そういう時は、自分に尋ねる。
「何が、死にたい位ツライの?」と。
親しい友に聞くように。
そう思えるのは、何度も死のうとした過去があるから。
それでも、死ななかった事実があるから。
“死ぬ事すらできないのか”と嘆いた事もあったけど、
今は死ななかった必然を感じる。
生きているだけで丸儲け。
って、さんまさんが言っていたっけw
“随分、脳天気な言葉だ”なんて覚めた目で見ていた。
その言葉の深さが、今は胸に染みる。
かつて、自分で自分を、
何度も殺そうとしてまで得たかった、
生きる理由。意味。答え。
それは、言葉では表せない事だったよ。
大人になるに連れて、
少しずつ、人生がよくなっていった。
それでも、何度も何度も絶望が襲った。
自分には結局無理なんじゃないか、と膝を折った。
止まない雨もあるんだ!と、何に対してか分からない悪意を放った。
そして今、35歳。
幸せに生きる自分になれた。
心理学や哲学や色々な心の事を勉強して、
ここまで来た。
あの頃の口癖は、「大した事ない」。
今の口癖は、「それが私」。
自己肯定感と“私の取扱説明書”のおかげ。
私のように、生き辛くて苦しんでいる人に、
少しでも伝わればと祈って、
今日も一字、一字、言葉を綴る。