思考が敵なわけがないー思考を沈めた先にある、思考
「思考を手放しましょう」
「頭で考えるのをやめて、感性に従いましょう」
自己啓発やマインドフルネスの世界で、私たちはよくそんな言葉に出会う。
真面目な人ほど「思考=手放すべき悪」「エゴ=静めるべきノイズ」と捉え、頭の中を一生懸命に「無」にしようと試みているかもしれなし。
けれど、少し立ち止まって感じてみてほしい。
——思考は、本当に私たちの敵なのだろうか?
本来、思考とは人間に与えられた最も美しい「知性のキャンバス」であり、人生を豊かに彩る最高の相棒。
それを「考えまい」と力づくで消し去ろうとするのは、あまりにも勿体なく、そしてどこか不自然なことのように感じる。
「勝手に湧くノイズ」と「自発的に思考する歓び」
ここで静かに区別しておきたいのは、脳内を過ぎる「現象」と、私たちが主体的に行う「思考」は違うという事。
前に記事にした、「考え」と「考える」の違い。

ふと意識に浮かぶ「どう思われるだろう」「成果を出さねば」「損をしたくない」といった焦りや不安。
これらは、あなたが『考えている』というよりは、過去の記憶や防衛本能が勝手に鳴らしている「脳内の自動通知」のようなもの。
通知が鳴るたびに深刻に受け止める必要はないのだろう。
それらはただ「あぁ、今日も鳴っているな」と優しく横に置いて、放っておく。
雑音としての思考が静まり、湖面が澄み渡ったとき。
その静けさの底から、ふわりと浮かび上がってくるものがある。
それこそが、「思考を沈めた先にある、真の思考」。
静寂のあとに訪れる、極上の知的探求
恐れや義務感といった濁りが消えたあとに残る思考は、あなたを苦しめるグルグルとした独り相撲ではない。
始まりがあり、終わりがある。
何かしらのゴールに至れる、気持ちのいい探索=Wander。
「この概念を、どう読み解いたら面白いかな?」
「世界をこんな視点で眺めてみたら、どう見えるだろう?」
「あのゲームのキャラクターは、どうして我を通しながら、ああも美しいのか」
それは、洗練された対話のように軽やかで、ただ純粋に知性を巡らせ、言葉や概念を紡ぎ出していく「極上の知的な遊戯(あそび)」。
直感(ひらめき)× 澄み切った思考(知性のあそび)
静寂の先に立ち上がるものが「身体的な行動」である人もいれば、私のように「思いっきり思考を巡らせること」、そのものが歓びであり、癒やしである人もいるだろう。
千差万別。
だからこそ、思考を敵視して封印する必要はないという事実を、私はここに置いておく。
「思考を手放した後に、また思考を選んでもいいのだ!」と。
ノイズ思考を沈め、クリアな頭で、今日も思いっきり思考をする。
考える葦である私達人間の、極上の贅沢ではないか。
などと、自惚れながら。
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